雪ヶ谷へ延長


 池上までの開業の翌年、大正12(1923)年5月4日、池上〜雪ヶ谷の3.5キロが単線で開業しました。途中駅には末広(→東調布→久ヶ原→現久が原)、御嶽山前(→現御嶽山)、調布大塚がありました。なお、千鳥町は遅れること大正15(1926)年に開業、この時はまだありませんでした。

 雪ヶ谷駅は現在の雪が谷大塚より五反田寄り数百メートル先にあった駅。石川台に向かう築堤が始まる手前の場所でした。ようするに、この築堤の建設に手間取った、ということでしょう。資金難かどうかはわかりませんが……。

 延長開業と同時に2両の電車(丙 11・12号)を静岡鉄道から購入、2軸の単車でした。この車輌は、くだんの自社発注新造車(甲 3〜6号)が完成する大正15年までのピンチヒッターとして使用され、予備車となったあとほとんど使用されずに昭和8年に廃車となりました。

 この区間には平行する古い街道もなく田畑や林ばかりの土地でした。終点の雪ヶ谷は今の雪が谷大塚のもう少し五反田寄り、築堤のちょっと手前あたりだったそうです。沿線人口があまりないので、土地買収もあまり難しくなく、すみやかに開業へと漕ぎ着けたのでしょう。
 地理的な話をすると、日本列島が海底から隆起。さらに山間部からの崩れやすい土砂の堆積による州の形成。氷河期には関東平野は氷に覆われ、溶ける作用で平らに削られ、河川によ河岸段丘、谷の形成がありました。大田区はこの平らな台地部分と谷とで形成されており、ルートを誤ると山坂ばかりになってしまいます。池上線のルートは海岸付近の低いレベルから緩やかに台地へと向かえる数少ないルートです。起伏が少なく農耕には向いている土地柄。蒲田付近には河川もあり、戦前の工場建設前には水田が広がっていたとのことです。
 ようするに、田舎の鉄道だった、ということですね。そんなわけで、延長開業の増備車輌も2軸の単車でダイヤ的にも輸送量的にも十分間に合ったのでしょう。

 延長開業と同時に作られた車庫は、雪ヶ谷の一つ手前の調布大塚という駅に、こぢんまりとしたものがありました。いまの場所でいうと、たぶん、新検車庫があるあたりではないでしょうか(アタリでした、回想の東京急行1、p.136に図面もありました)。桐ヶ谷開業時にここが手狭になり、現在留置線がある三角形の土地に新たに車庫を造り、いままで車庫だった場所は社員寮などの建物が建つ。さらに現在にいたり、社員寮を壊し、また車庫とするため工事をしている。という推理はいかが?

 ちなみに『調布大塚』と名が付くだけあって、周辺には古墳がたくさんあります(荏原台古墳群)。直径10メートル前後の豪族の円墳や、谷の崖に横穴を掘っただけの横穴式古墳なども多く、今で言う久が原から等々力あたりまでの地帯、多摩川をはさんだ向こう岸にも古墳が多くあります。東横線が前方後円墳(亀甲山古墳(キッコウヤマコフン))を削って線路を引いているのは有名ですね。
 『調布』の地名はこのあたりで布を作っていたところから来たもようです。

 なお、この年、大正12(1923)年9月1日関東大震災があり、とある資料によると死者は9万9331名、負傷者10万3733名、行方不明者4万3476名どう数えたんでしょ。さらに建物も全壊12万8266戸、半壊12万6233戸、焼失47万7128戸大火だったんですねとざっと足しても約73万戸に被害があり、都市部から焼け出された人々が山手線の外、郊外へと移住したとのことです。しかし、池上線は都心方面への接続予定点である目黒まで開通していなかったため、沿線の人口増はほかの私鉄各線と比べてもあまりなかったそうです。

 あと目黒蒲田電鉄の目黒〜丸子も大正12(1923)年3月11日に開通。ここの区間は大正10(1921)年2月に前身の田園都市(株)が免許を受けていて、会社の体制が整った大正11(1922)年9月2日から、準備よろしくあっという間の8.3km開業でありました。この免許を受けた時点では、次のページにあるように覚書を取り交わしていたりするのですが、池上電気鉄道側と目黒でなかよく接続するつもりが少しはあったのかなぁ……。