目黒を諦め五反田へ


 池上電気鉄道は、蒲田から次々と延長していたものの、雪ヶ谷開業時の大正12年5月には、目黒から蒲田へ向かう路線、目蒲線が先行開業してしまいました(大正12年3月11日、目黒〜丸子(→武蔵丸子→現、沼部)開業)。
 さらに、大森〜池上のルートも土地買収の問題で絶望的、このままではいいこと無いので路線変更の届け出を出し、目黒へのルートをあきらめて五反田へとルートを変えることになったのでした。この変更が認可されるまでの間、資金難ということもありしばらく工事はストップしてしまいます。

 もともと池上電氣鐵道の発足当初、目蒲線を計画した田園都市(株)のちの目黒蒲田電鉄、渋沢栄一の提唱で設立双方の役員同士で将来合併することまで含んだ会社としていました。これは目蒲線開業前の大正11年3月28日付で両者の間で取り交わした覚書があることから、将来は合併して、地域開発を一緒にしましょう、ということだったのでしょう。
 この覚書、詳しい背景が記載されているものが見つからないのですが、推測するに池上電気鉄道の役員が、田園都市(株)の目黒〜大岡山の免許所得に驚き、「オイオイ、話ちがわねぇか? 昔約束しだじゃろうに。仲良くできるよね?」ということで、あわててもう一度確認のため取り交わしたものだと思います。

 しかし、田園都市(株)側からすれば、旗ヶ岡付近での大井町線との交差問題で地上を取られ(その結果大井町線のルートは荏原町から築堤で上がり、旗の台にある丘をなんとか利用した工費のかかる結果となった)、「協力もなにも、ライバル同士じゃん、ちんたら建設してるし、こっちは待ってられないんだよ……。」などと思っていたかもしれません。覚書が交わされた直後の田園都市(株)の株主総会では「ボロ会社と一緒になられては困る」とか言う発言もあったとか。株価とかに影響してしまうということなのでしょうか、とにかく池上電気鉄道の印象は悪かったようですね。

 覚書を交わす前後に、田園都市(株)は鉄道経営の経験者を欲し、箕面有馬電鉄軌道ミノオアリマ→阪急の前身の創業者であった小林一三へ相談、推挙により、当時武蔵電気鉄道の常務だった五島慶太氏は田園都市(株)に関わることになる。
 そして大正11(1922)年9月2日に田園都市(株)から鉄道部門を独立させた目黒蒲田電鉄を設立、武蔵電気鉄道が持つ敷設免許とあわせ、第一次着工として目黒〜丸子を開始してパッと開業してしまう……。

 武蔵電気鉄道時代の計画田園調布〜池上〜蒲田のルートを、資金難とか言う理由で池上側に一部似たルートで建設され、さらに計画路線が重複すれば、当然土地を奪い合う……。そんなライバル同士が交わした覚書、田園都市(株)側からすればこんなの「うるさいから書いとけ」くらいなものだったのかもしれません。波に乗ってる田園都市(株)からしてみれば、池上電気鉄道はなんとも読みが甘い会社に見えたのでしょう。
 その後、大震災という予期せぬことが起きたからとはいえ、山手線に接続する目蒲線沿線は急速に人口が増え、収支も明るくイケイケだったんでしょう。もしかしたら、合併吸収への運命はこのときすでにできていて、誰かの手の中で踊っているにすぎなかったのかもしれません……。

 ところで、目黒という所、山手線の駅の歴史を見ても、明治18年3月1日開業したわずか3週間後、3月16日に目黒駅が開業しています(目白駅と一緒の開業日でした)。それに遅れて、五反田駅の方は明治44(1911)年10月15日に開業。(ちなみに、隣の大崎駅は明治34年2月25日に開業。)大正初期の五反田を知る人に言わせると、当時は梅林が桜田通り(国道1号線)沿いにあって、山手線から見て内側は森、外側は田畑だったそうです。町の発展度から見ても目黒不動などの名所がある目黒の方が栄えていたのでしょう。池上電鉄としては目黒の方がおいしそうに見えたのですな。(さらにちなみに、大崎駅の生い立ちは、山手線開業時に東海道線と品川とは別方向、大井町側にも線路を引き三角線を作りました。その信号所の役割もあって大崎駅は信号所として開業時に開設。のち、駅として開業しました。しかし、街道もなかったところなのであまり栄えた街ではありませんでした。)

閑話休題

 大正15年ころには川崎財閥の資本も入り、3年ほどの暗中模索から抜け出し、五反田延長工事とともに蒲田から雪ヶ谷の複線化工事にも着工。開業時に備え、鉄道省から木造電車デハ6310形(電圧600V、池上20形(→デハ3300形))10両を払い下げを受けるべく、大正15(1926)年に1両、昭和2(1927)年には9両の申請を出しています。

 大正12年頃の旅客運賃は区間制で、蒲田〜慶大グランド前が五銭。蒲田〜久ヶ原が十銭だったとあります。


 また、大正15(1926)年8月6日には、東調布(現久が原)と池上のあいだに『慶大グランド前(現千鳥町)』が開業しました(1999/12/16岡田様からのご指摘により訂補)。また、当時の駅舎の位置は、現在の千鳥町駅より200メートル程池上寄りにありました(1999/12/16岡田様からの情報により加筆)

 千鳥町の開業当初駅名は「光明寺」と大田区史にはありましたが、『回想の東京急行1』には「ごく初期には〜という説もある。」とありました。光明寺は大変古いお寺で、環八が最後まで貫通できなかったところにあるあのお寺です。工事に伴い埋没調査をしたら、古い埋葬品が出たそうで、あの丘はもともと古墳では、という説もあるとか。
 慶応大学のグランドがあったためこの名前にしたのか、はたまた計画段階では「光明寺」で、完成時に名前を改めたのか、はちゃんとした裏付けができませんでした。また、古い地図の中には「ちどりまち」とひらがなで書いている物も……。ま、それは地図が間違いだと思いますが。

 そして、いよいよ昭和2(1927)年8月28日に桐ヶ谷まで開業するのでした。