昭和40〜50年代


 昭和40年代からは蒲田駅の高架化工事完了、長原駅の地下化、などがありました。

 蒲田駅の改良工事は、増える旅客に対して狭いホーム、末端部分が単線のままになってしまった池上線の増発対策、蒲田駅再開発計画の一環としての東急駅ビル建設、などが背景にありました。
 いつからかはわかっていないのですが、2面2線の対面式だった蒲田駅の目蒲線のホームを残し、島式を2本と対向式ホームを1本作り、目蒲線は2線使用、池上線は1線使用の形となっていた。
 これを高架工事を始める際に目蒲線の対向式ホームを削り、1本のところに線路をもう一本引き、対する島式1本を残して目蒲2線、池上1線とした。その後高架工事を進め、まず現在の池上線ホームと目蒲線の島式ホーム1本だけを作り、池上1線2ホーム、目蒲2線2ホームとなっていちおう使用開始となっている。その後ホーム2本と線路1本を作り、いまの形が完成した。
 工事完了の日付はいろいろな記述がありいまだはっきりとしていない。調査を進めている段階である。ただ、昭和37年にはまだ工事に手を着けておらず、昭和42年に工事中の空撮写真があり、駅ビルはまだ形になっておらず、高架ホームは4本出来ているが線路はこれから、というものであった。

 長原駅の地下化工事は、旗の台〜長原間に環7と交差する箇所があり、踏切渋滞を解消することと、長原駅前後のきつい勾配を解消するためであった。 完成は昭和47年6月?日のこと。
 この勾配は、古い東急の運転手さんから伝え聞いたところによると、上りも下りも運転上の一つの見せ場のようなところであった、とのこと。勾配起動を掛け下り勾配のブレーキに備え、細心の注意を払いながら環7を越えたのだそうです。
 地下化完成後に地上には東急ストアが3階建てでオープン。1階は駅設備とロッテリアと東急ストアのバックヤード。2,3階が売場です。そのほかに道路向かいには三菱銀行の長原支店も完成。50年代後半には洗足池よりの線路上に公園ができました。

 なお、同時期に大井町線の環7&中原街道との立体交差化、そして、目蒲線の洗足駅も地下化もできています。都市計画の一環として進められたのでしょう。もしかしたら中原街道と環7の立体交差化も同時期なのでしょうか。工法やデザインなどとともに共通点が見受けられます。

 続けて戸越銀座〜荏原中延〜旗の台の連続地下化工事が始まります。しかし当初の予定通りに工事は進まず、何年かまったく進展しない時期もありました。工事が本格的に始まる前までは、荏原中延〜旗の台はいい感じの直線で、運転手の機嫌? がいいと、60キロオーバーなんてことも時々ありました。

 どんな理由があったかはわかりませんが、工事完了は60年代までおあずけとなるのでした。

 あと、五反田駅の駅ビル建て直しもこのころだったと思うのですが..、調査します、ハイ。
 五反田駅ビルの建て替えは、解体〜建築と長期に渡るため、そして、地上からホームへでるルートがなくなってしまわないようにするため、様々な策がとられました。
 一時は山手線の改札口から山手線のホームを抜け、連絡橋を上って……、というルートだったこともありました。そのほかにも山手線への連絡階段が閉ざされ、ベニヤ板で囲まれた白熱灯が照らし出すなんともいえない雰囲気の階段を2階まで歩かされ、歩道橋を渡って国鉄の改札口にたどり着く……とか、いろいろ想い出があるところです。

 こうして五反田とうきゅうが完成、東急ストアとして営業が開始されました。細かい年月日は調べたいと思っています。