戦中〜昭和30年代

 第二次大戦中に、池上線が受けた被害は山手線の外とは言え結構あった模様です。
 と、言っても、戦争の被害状況の詳しい資料など多く残っているはずもなく、私が知っているかぎりをまとめてみたいと思います。(いや、調べればあるのです、消防関係の日誌などをまとめたものがあり、読み切るのには何日かかるのか...というものでした。トホホ……。)
 昭和20年4月に蒲田駅も空襲にあい、停車中だったデハ3302と3303号が全焼してしまったそうです。
 駅や車両が被害を受けた記録はこのほかには見あたらないのですが、焼夷弾が戦後も不発弾として沿線のあちらこちらで出てきています。平成になる前の昭和60年代には建設ラッシュがあり、旗の台付近や千鳥町付近で不発弾が見つかったことも。
 なかでも昭和6?年に起きた、荏原中延駅すぐ脇の不発弾処理作業は、列車を一時止めての処理作業となりました。民家(商店?)を建て直す際に偶然出てきてしまい、沿線ではけっこう話題になった物でした。記憶がはっきりしていないのですが、たしか2〜3時間ほど休日の日中に列車を止めてのことだったと思います。首都圏のローカルニュースとしてテレビでもやっていました。


 戦時中の蒲田駅は大手術が施されます。推測するに、合併後、目蒲線と池上線の蒲田駅を整理する計画があり、国鉄(省線?)の蒲田駅に対して平行であった路線を、直角に入るようにし、車輌のやりくりや駅前の整備に力を注ぐことになったのだと思います。
 (池上線開通当時は木造でホーム2面、国鉄(省線?)に対して平行に設置されて開業していました。目蒲線も東海道線に対して平行にホームがあり、両線の間は地図で見ると微妙な間があったようです。)

 時期に関する資料がないのですが、まず、池上線のホームを国鉄に対して直角にし、目蒲線は平行のまま、という時期がありました。
 目蒲線は、矢口渡〜道塚(旧 本門寺道)〜蒲田という多摩川側に膨らんで蒲田へ平行に入る路線を開業以来使っていたのですが、昭和20年6月1日にその路線を休止して、現在の直線に蒲田へ入るルートを走るようになります(正式な廃止は昭和21年5月31日付け)。 そして、池上線と平行するおよそ300メートルの間はお互いに単線、ホーム2面、2線の木造の駅となりました。

 (このころは環状8号線もまだなく、計画はあるものの着工など戦時、戦後の混乱で白紙状態だったのでしょう。国鉄を越す陸橋も昭和35年に建築中の写真がありました。目蒲線の旧路線は、目蒲線と環8が交差した蒲田寄りが、その後の環八の一部となりました。そのうち古い地図を参考にイラストでも起こそうかな。)


 戦後の昭和26年5月1日には、旗ヶ岡駅が大井町線の旗の台駅と統合され名称変更されます(大井町線の旗の台は昭和26年3月1日以前、東洗足駅という駅名でした)。
 それまではずいぶんと離れた駅でた。場所は大井町線が中原街道と交差する大井町寄りにホームが、池上線は今より少し五反田より、ちょうど現在の地下から出てきて踏切を越えて水平になるあたりでした。
 両線の交差地点に新たに駅設備を作って、大井町線がまず3月の改名と同時に移動。5月に池上線の駅設備をしよう開始、と考えてよいでしよう。 結局、古い駅は廃止した形となります。(駅の跡地には各線とも保線基地スペースとなり、池上線のスペースは、その後地下化工事に活用されることになります。)
 
 この地への開業は、大井町線の方が早かった(日付の資料無し、たぶん昭和2年7月6日)のですが、免許を受けたのは池上線の方が6年ほど先だったために池上線の方が地上になったのだそうです。レベル的には、どちらも長原、北千束から丘を下ってくる関係なので、上となる方が築堤などを作らねばならず、資金的にももめる要因ではなかったかと思われます。

 地名的には「旗ヶ岡」とむかしは言い、大正時代ころには「旗の台」と言っていたそうです。開業当時の駅名が違うこと、駅の位置がとても離れていること、開業が後発だった池上線として、目蒲電鉄の大井町線をライバルとして見ていため、同じ名前を使いたくなく、駅も離して作ってしまったのでしょうか。



 関係ないですが、戦時下、そして戦後のGHQ支配下においで趣味的に面白い短絡線がいくつか建設されています。なかでも国鉄蒲田駅の貨物用施設から京急線の蒲田脇を通り穴守線(のちの羽田線)の上り線を改軌し、羽田空港へと線路を延ばした路線がありました。
 国鉄線の川崎方向からその支線へ入る形で、蒲田駅からは直接入ることはできませんでした。急なカーブを描いたあと操車できる仕分線があり、まっすぐ穴守線へと向かっていました。非電化で単線のため輸送力はあまり高くなかったのですが、羽田空港の拡張工事に必要な物資を輸送し、拡張工事が一段落した後は兵士を本国へ帰還させるための客車列車も走ったことがあるそうです。
 列車は6760形などを中心に、C11や8620形などが貨物列車を1日4〜8往復ほど運転していたそうです。国鉄が管理し、昭和22年4月頃から24年5月頃まで使用、25年の夏には線路をはいでしまいました。
 このころの蒲田駅周辺は田畑がまだあり、工場が進出していたものの空襲で焼けていました。施設するのに時間がかからなかったところを見ると、焼け野原だったのでしょう、きっと。
 この線路がはがされなかったら...、蒲田〜京浜蒲田の線路が無くとも羽田空港のターミナルへの旅客用としてモノレールよりも先に線路が延びていたら...、
 今では道路として整備され、見る影もありません。

 まだ大東急時代のことであり、目蒲線を京浜蒲田まで延長すると...、なんていう計画を考えている現在、ちょっと資料を目にしてしまったのでテキスト化してみました。