合併そして東急へ



 話変わって合併の話

 当時、目黒蒲田電鉄の専務だった五島慶太氏が、池上電気鉄道の株の過半数を川崎財閥から受け、昭和9年10月1日に吸収合併することとなりました。その後玉川電気鉄道(玉電、世田谷線など)を吸収合併させていた姉妹会社の東京横浜電鉄と昭和14年10月1日に合併。同月16日には商号を東京横浜電鉄と一時的に名乗り、翌年の昭和15年1月に商号変更で東京急行電鉄と名乗ることになるのです。これが今のほぼ原型となるわけですね。


 資料からなどの勘ぐりモードなのですが、何かでライバルとなってしまった五島慶太氏率いる田園都市株式会社陣営は、計画順位としては大井町線が先であったのに、池上電気鉄道側とルートでもめ、目蒲線の免許も元鉄道省の役人という五島氏のパイプを使って先に免許を受けている池上線の競合路線にもかかわらず免許を受け、財力にモノをいわせながらなかば強引に目蒲線を建設、開業してしまった、という見方もできるのではと思っています。池上側は路線となるルートの土地買収も進んでいたはずで、これを道路や宅地として処分したかどうかはわからないのですが、なんにせよ、痛手になったことは間違えなさそうです。


 池上電気鉄道の代表は、当時京成電気軌道を主業としていた後藤国彦氏。それに池上線沿線の有力者などがお金を出し合って設立。しかし資金難で計画が危うくなり、川崎財閥の支援を得て計画続行。そして、五反田への計画変更、建設費がかかった大崎広小路〜五反田間の高架線は、川崎財閥(日本火災保険社長 川崎肇氏)という資金力あっての全線開通だったのでしょう。
 このように、雪が谷大塚から先の開業と複線化分の資金のほとんどが川崎財閥からのモノと仮定すると、川崎氏が持つ株式は半数以上だったのでしょう。それを五島氏が譲り受け、臨時株主総会を開く。
 ライバル視されていた当時の池上電気鉄道役員は辞任届を出し、株主から承認され、目黒蒲田電鉄の五島慶太氏、小林一十氏ら役員がそれを継ぎました。この買収劇(臨時株主総会)は昭和8年7月10日のこと。こうして、合併へのプロセスが始まったわけです。


 この合併により車体番号の整理がありました。

・目蒲電鉄との合併時
たとえば鉄道省から払い下げを受けたデハ20は、モハ30に。(その後鋼体化改造を受けモハ150に。そして大東急時代にデハ3300に。)

・大東急になったとき
たとえば100形は、目蒲時代にモハ120になり、大東急時代にデハ3250へ。

 戦時下の『陸上交通事業調整法』により、京浜電気鉄道(京浜急行やね)、小田急電鉄(名前もう変わってたんやね)、京王電気軌道(京王やね)とあいつぎ合併。戦後、各社がまた独立するまで大東急時代が続きます。この辺の詳しい資料、ちょっと持っていませんでした。

2002/1/26訂補