五反田全線開通へ


 昭和2(1927)年8月28日にはとりあえず桐ヶ谷まで開業。同駅が国道1号線に近く、バス連絡が容易だったための処置だったのでしょうか。途中駅は現在と同じ石川(現石川台)、洗足池、長原、旗ヶ岡(現旗の台)、荏原中延、戸越銀座で雪ヶ谷開業の4年後のことでしたした。

 雪ヶ谷〜旗ヶ岡あたりまでは元々の計画通りと推測され、石川台の築堤建設、石川台〜洗足池の切り通しとお金がかかる工事故に資金難や工期がかかったのではと推測します。
 その切り通し上のは開業当時からのもの。を植える理由に、冬にゆるんだ土を春になると桜見物できた人たちが踏み固めてくれるから、と言われています。

 切り通しを抜けると築堤の上に洗足池駅があります。開業当初は貨物ホームが上り線五反田寄りに、渡り線が蒲田寄りにあったそうですが、なにに使っていたのかははっきりしません。昭和9年の駅舎改築と同時期に貨物ホームはなくなったそうです。
 (なお、『回想の東京急行1』五反田寄りに渡り線〜という記述があったのでこの件はいったん削除してしまったのですが、『2』には蒲田寄りだったと訂正記事があり、この文面を復活。しかし、貨物ホームと渡り線が駅ホームを挟んで離れているとは考えにくく、かえって謎なんだよねぇなんて思っています。)

 洗足池から勾配で駆け上がると開業当時地上駅だった長原に。環状七号線はまだまだ計画段階でした。急な勾配を下ると旗ヶ岡、大井町線の方がわずかに先に開業していたのですが、東洗足という場所も駅名も違うものでした。
 目黒へのルート計画よりは直線的で勾配も少ないコースをたどり、荏原中延、戸越銀座と地平と同じレベルで建設。中原街道に近すぎると人家も多いためか、距離を置いた丘を切り通しで国道1号線と交差する桐ヶ谷まで出るルートを採りました。

 そしてそのわずか1ヶ月チョットののち、昭和2(1927)年10月9日に大崎広小路まで全線複線化完了とともに開業します。ホームも道路からかなりの高さがあり、桐ヶ谷からの線路は緩い下り勾配なのに、切り通しから築堤へと変化。やはり築堤は時間とお金がかかったようです。五反田へのレベルに合わせ、資金とバランスをとりつつあまり下がらないように作った感じがしますね。

 なお、桐ヶ谷駅は昭和28年9月11日に廃止されていますが、場所は国道1号線(第二京浜)との交差付近、五反田寄りでした。五反田への延長後、国道1号を拡張するにあたり用地を提供、戦時末期に空襲に遭い、応急運転をはじめた際に駅間が近いという理由で営業停止、その後ホーム等を撤去した。となっています。

 さて、いよいよ大崎広小路〜五反田の開業です。
 時は昭和3年6月17日。全線開通記念日と言ってよいでしょう。
 なお、この高架設備は今も開業当時のものを手直しされながら使用しています。建設には鉄道省が関わり、重厚にして頑丈。そうそう作り直すこともないと思います。

 五反田まで開業するまでは、同社が営業していた路線バスで桐ヶ谷〜五反田を結んでいました。池上電気鉄道としてはバス運行は昭和2年9月9日から中延〜五反田で営業を始めています。他に丸子橋までの中原街道沿いの路線もあったようで、バスを走らせたという点では目黒蒲田電鉄より早かったと言えます、そのため東急バスの元祖といえるかもしれません(その後合併吸収した会社に大正9年設立の目黒自動車運輸という会社があけど旅客運輸はしていなかったもよう)。

 五反田駅は開業当初、山手線の上を品川方に「コ」の字へと階段を下り、内回りと外回りのあいだに山手線ホームへの連絡通路が延びていました。ホームには改札と待合室があったもようで、まだ白木屋が入る駅ビルは完成していませんでした。

 当初、駅ビルを建てる計画ではなく、山手線をまたぎきる鉄橋として作りました。池上電気鉄道としてはさらに先、白金、品川方面へと延長する免許を持っていたので、頑張って大崎広小路よりさらにレベルを上げ、山手線の上にホームを造ったのだと思われます。品川まで開業してたら便利だったのになぁ……。品川まで行くことを考えていなかったら、また、もう少し開業年度が遅れていたら、五反田駅の構造はまったく違っていたでしょうね。
 けっきょく山手線内は市営とする政策が採られたため延長の工事は行われず、ターミナルビルの建設に着手するのでした。
 なお、ビルの4階に相当する高さに改札口とホームがあり、当時東洋一の高架ホームだったとか(ホントか?)。ある書籍には「このホームを描くために画家がたくさん訪れた」とかいう説明とともに開業時の写真が目黒川の橋の上から撮ったものが掲載されていました(書名失念)。

 そのむかしには、強風時に手前の大崎広小路で客を降ろし、五反田までの間はカラの電車を回送したときもあるとか。今でも台風の時などホームに立っているとびしょぬれになってしまうほど。乗客は電車が入線するまで改札近くに引っ込んでいるなんていうこともあります。

 駅ビルは開業4年後の昭和7(1932)年に5階建てのビルが完成、当時は白木屋が入りました。このビルは昭和5?年まで使われ、4階はホームの高さと同じと記憶しています。(白木屋はその後東急が買収、いろいろな変革ののち東急ストアとなる)

 バブルで高いビルができたとはいえ、まだ眺めのいいホームだと思います。ホームからは新幹線や羽田へ着陸する飛行機なども見え、高架駅はたくさんあれどここまで吹きさらしなのはまれなのでは。

 全線開通と同時に導入した新車もありました。モハ100形(17m級3ドア)が5両。この車両の白黒写真が『東急の電車たち(昭和59年発行)』に載っています(この写真で見る洗足池駅、屋根が少し違うほかはかなりものが今でも使われていることに気づきます。)。昭和5年には200形が3両製造されます。当時は単行で運転され、塗色はダークグリーンでした。これで引退(伯備電鉄に譲渡)した1・2号をのぞき、全車あわせ22両体制となるのでした。
 なお、この22両に入っているかは定かではないのですが、デト1という電動無蓋車が1両ありました。昭和3年に蒲田車輌で作られ、ポール集電でした。いったいなにを運搬するためのものなのかはわかりませんが、工事用だったのでしょう、たぶん。
 (ちなみに多摩川河川敷では砂利が採れ、目蒲線や東横線ではこの砂利を運搬するためなのか、無蓋貨車や機関車デキ1(→今も長津田にいるデキ3021)がありました。)