池上電気鉄道の始まり


 池上線の歴史をさかのぼると、『省線の目黒駅(荏原郡大崎村)〜大森駅(入新井村)を結ぶ10.2キロの路線』という計画がルーツになるようです。
 この計画は大正元年(1912年)に免許を申請し、それに対する免許が下りたのは大正3(1914)年4月8日のこと。その後、大正6(1917)年6月24日に池上電気鉄道が設立され、いよいよ着工準備に取りかかることになるわけです。

 当時の敷設目的は、「東京および横浜方面から池上本門寺、御岳神社、目黒不動尊に参拝する旅客輸送、および沿線の開発をする」を掲げていました。
 ようするに大森から池上を経由、御岳山、洗足池、荏原を経て、目黒不動をかすめ省線の目黒駅に至るルートを想定していたようです。

 『回想の東京急行1』のp.116にも紹介されている「池上電氣鐵道變更線路貫測平面図(東京都立公文書館所蔵)」には大森から目黒へ至る路線が描かれています。それによると、池上〜旗ヶ岡の手前まではほぼ今のルート。その先は北へS字カーブして中原街道と交差し、中原街道に沿うように目黒へ向かい、平塚橋の近くから目黒不動をかすめ、丘陵を避けながら目黒駅のバスターミナルとなっているあたりまで建設するつもりだったみたいです。目黒から不動前付近までは目蒲線と線の引き方が違いはするものの重なっている箇所があり、田園都市(株)の目黒〜大岡山計画がまだはっきりしない時期でかつ工事もまだ始まっていなかったにしても、勾配を避けたルートはカーブが多く、速度が出そうにもないものと感じました。

 さて、沿線に目を向けると、沿線最大の集客力があるスポット、池上本門寺とは、日蓮上人が没した場所であり、江戸中期のころから亡くなられた日に『お会式(おえしき)』という法会を行なっています。それはとても盛大にとり行なわれており、現在でも毎年10月11〜13日は特別ダイヤを設定するほどの人出があります。
 御嶽山には御岳神社があり、境内のイチョウや桜は区の保存樹木に指定。これも古い歴史があります。
 洗足池は当時から景勝地とされ、千束郷にあった千束池が、日蓮上人が道中に立ち寄り足を洗ったところから、いつしか洗足池となったそうです(周辺の地名は今でも千束ですな)。そのむかしには勝海舟の別荘があり晩年はここで過ごしたとか(跡地には大森第六中学校が建つ)、湖畔には勝海舟の墓もあります。

 計画段階での当時の大森付近は、漁業や海苔などの海産物の水揚げ、花街などもあり大変にぎやかな街でした(いや、今も賑やかですけどね)。一方蒲田はまだ駅からすぐのところに田畑が広がるのんびりとしたところ。乗降客などを考えたら大森の方が利用客が多いと考えたのは当然のことでした。

 さて、実際に着工してもいいよー、という工事施工の免許が下りたのは大正7(1918)年3月25日のこと。しかし大森付近には計画時点よりも民家が密集してしまい、土地買収が難航してしまいました。いきなり壁にあたってしまったのですが、新たに支線免許を得る、というかたちで、まず蒲田から池上へという路線で開業することを目指すことになりました。ここ、池上電気鉄道があまり資金力がないと勘ぐってしまう一面でもあります。

 そして、池上〜蒲田を開業させるべく工事起工を大正10(1921)年5月18日、池上において行ないました。そして記念すべき開業日は翌年の大正11(1922)年10月6日。これが池上線の開業日としてよいでしょう。

 開業時の池上線は、池上〜蒲田の1.8キロを単線運転。蒲田と池上駅には2線2ホームあったようです。車輌の方は、駿遠電気鉄道(静岡鉄道の前身)から譲り受けたボギー車2両(乙1・2号)で運転を始めるのでした(うむぅ、池上線が新車になかなか縁がないのは最初からであったか)。
 じつは、当初予定されていた新造車の電気部品が海外からの輸入品。当時は国内の電機部品があまり発達していなかったためなのか、車体は電機部品待ちだったにもかかわらず、輸入が遅れてしまい開業に間に合わなかったため、急遽、乙1・2号を譲り受けることになったのです。
 この乙1・2号、形態は路面電車そのもので、定員65名、ステップがあり、架線電圧は500V。ポール集電であったそうです。(一部の書籍には開業時600Vだと書いてあるものもありますが、どうやら最初は500Vだったようです。)